スピード

やっと桜が咲いて

近所の「桜山」は薄靄がかかったようなファンタジーな姿をみせるはずが

南風の影響の本靄がかかって

しっとりした1日でした

 

 

そして今は強風

 

もう少し桜を愛でたいなとおもうのです

 

 

重要な何かを選ぶとき

どうやって選びますか

 

 

例えば

仕事

友達

趣味

恋人

 

 

直感

経験

現実感

好き嫌い

方位

 

選ぶ?

 

 

 

 

先日の春分を超えてから

変革期がひたひたと満ち潮のようにやってきているみたいででして

 

今までふつーだったものが

突如として違和感を感じたり

 

そして新しい選択肢が目の前に出てくる

 

 

じゃあそれどうやって選ぶ?

 

 

っていう話を昨日友人としていたわけです

 

 

 

 

 

 

ここ最近見つけたものを

ずるずる引きずり出して

検証しているのですが

 

 

ものすごいネガティブな『潜在意識の器』の中に

ものすごいポジティブなものが入っている自己構造に気づきました

 

 

 

 それにより

日常に溶けている見ないようにしていた違和感や喜びや嫌悪などの感情を

客観的に発見しはじめたのです

 

 

 

 

っていうところでなにをどう選ぶの?

 

 

 

 

会合の最後に友人から

 

『愛で選ぶ』と出てきました

 

でも今どうしてもそれ腑に落ちなくって

もやもやもやとしたまま朝を迎えました

 

 

 

そして朝刊の「折々の言葉」

石井ゆかりさんの文章をみつけました

 

 

iyukari.hateblo.jp

 

 

 

最初と最後だけ

 

自分の中の『NO』を知っていることが

羅針盤になることもあるのだ

(中略)

『やりたくない』ことを一つ一つ外したのち

今の道を選んだ

 

 

 

やりたいことよりも

やりたくないことのほうが

たくさん出てきていたのです

 

 

 

何故ならば

客観視することで

『器』の書き換えを行ったから

自分の現状の状況が

書き換えた『器』にいきなり合わなくなっているのです

 

 

 

でもそれって『愛で選ぶ』じゃなく

これじゃあ『自分さえよければいいで選ぶ』じゃあないかい!!

 

 

っていうもや靄もやを

 

ゆかりさんが励ましてくれました

 

 

 

 

『やりたくない』を客観的に見るということは

自分に対して責任を持つということ

自分の嫌なところ出来ないところを見つめるということ

 

 

 

自分が纏ってきた本来の自分に嘘をつくためのはごろもを

一枚一枚

玉ねぎの薄皮を剥ぐように

外していくこと

 

 

外せば外すほど

隠していた見ないようにしていた己の邪悪さが

ずるずるとでてくること

 

 

 

そしてジャストなう

ココロから

「自分に対する愛で選ぶってことですよ」

って出てきましたけど

 

 

無理して我慢して辛い思いをしてきたことを

見つけて認めて見送る

灯籠流しみたいに

 

 

 

『器』を書き換えたことで

別のタイムラインにうつったのです

 

 

この世はパラレルワールドだから

 

 

過去の傷に向き合い手放すことで

 

 

今が変わる

 

 

そして答えがやってくるスピードが

どんどん早くなってくる

 

 

 

 

 

 

『器』

とは

「メタモ意識」のことであり

「デフォルトコンテクスト」のこと

 

 

わかりやすい説明がやってきました

 

 

www.watashi-kigyou.com

 

 

 

 

 

 自由に選んで

自分の道をあるいたらいい

誰に遠慮することもなく

ただ自分に正直に

手を出すことができるのは

自分のことだけ

そして誰も自分に手出しはできない

尊敬と尊重を常にここに

本来の自分を生きるのです

 そのためにここにいるのだから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『沈黙』後編

前の記事『沈黙』から続きです

 

 

やっとあたたかくなってきて

先週のおひつじ座新月の日に蒔いた種から芽がでました

 

冷蔵庫に入れて水に浸して準備していた今年の大本命のホワイトセージと

去年2度蒔くも2度とも発芽しなかったニガヨモギ

今年の一番乗りの芽を出しました

 

うれしい

 

 

 

このワクワクが芽とともに大きくなって

魔法ハーブの庭になるのです

 

うふふ

 

 

 

 

 

ということで『沈黙』続きです

 

 

もうひとつ

とても気になるポイントがあったんです

 

 

 

ロドリゴが長崎でフェレイラ師に再会したところで話されたことです

 

「この国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということ」

 

キリスト教信仰は日本で広まったというロドリコに対して

 

「この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思い込んでいた」

 

「おそらくだれもこの言葉を信じてもらえまい。お前だけでなく、ゴアやマカオにいる宣教師たち、西欧の教会すべての司祭たちは信じてはくれまい」

 

「はじめは少しも気づかなかった。だが聖ザビエル師が教えられたデウスという言葉も日本人たちは勝手に大日とよぶ信仰に変えていたのだ。陽を拝む日本人にはデウスと大日はほとんど似た発音だった」

 

通訳の言葉の壁の問題ではないと

日本人は彼らの神を日本人流に屈折させ変化させ

そして別のものを作り上げはじめたのだ

 

 

あれは神じゃない

蜘蛛の糸にかかった蝶そっくりだ

はじめはその蝶はたしかに蝶にちがいなかった

だが翌日それは外見だけは蝶の羽と胴をもちながら

実態を失った死骸になっていく

我々の神も既に実態のない死骸になってしまった

 

 

「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」

 

 

 

 

 

キリスト教に触れたのは幼稚園と小学校低学年の日曜学校だったので

彼らの「神」についてわからないのです

 

でも彼らは三位一体

父と子と聖霊

そのうち「聖霊」は教会に行かないと会えないものとすることで

教会の存在を拡大していったと

シュタイナーのクラスで先生が話されていました

聖霊は人のなかに宿っているという考えのグノーシス派は異端とされています

 

 

 

 日本人は聖霊は万物に宿っていると考えているのではないかと思います

 

 

 

そして日本人の

そとから入ってきたものを

自分たちの世界に馴染むもにに変換していくこの力とは一体なんなのだろう

 

 

 

  

 

でもフェレイラ師はこの日本人の精神を『沼地』と呼びました

彼らの宗教はそこで腐ってしまった

 

 

 

 

 

 

 

 

でもね言ってみたら究極それは個人の思想であり国や国民性も関係するけどそれ以前個人の中に独自のものはあり

そこから生えてくるどんなものでもすべて自由で美しく

 

 

だって世界は宇宙は多様なのだから

 

 

そこに至るには誰にもわからない積み重ねた歴史があるのだから

 

 

それは聖職者でも権力者でも侵すことはできない

 

 

 

その多様さを認め

美しいと

尊い

思う心が

寄り添うことが

 

 

それが

 

 

 

もしかしたら『イエス』なのかもしれないと思うのです

 

 

 

 

ひとが皆

イエスになることが出来たとき

 

 

 

世界は初めて『神』を見るのかもしれない

 

 

 

 

人間の中の根源的な神の存在

 

 

 

今そういうところ立ち返る必要があるように思います

 

 

 

 

 

人は一人では生きられない

 

 

それは同じ人間という種族間だけでなく

 

この大地

木や草や土や鉱物

いろんな動物や魚や虫

息づく菌

大気や水や流星

そして太陽や月や星

 

 

森羅万象全てがあって

全ての存在が生きることができるのではないかと思うのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

予想だにしなかった形でまとまってしまった!!!!!!

 

 

でもとてもすっきりしました!!!!

 

 

 

 

 

これもココロの仕業でしょうか

 

 

 

 

 

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

 

 

 

『沈黙』

春爛漫の今日この頃

あったかいということは大きな確かな幸せですね

 

凍えていた桜たちも

やっと安心したように開いているのをみると嬉しいですね

 

毎年桜の感じが違うようにみえるのは

やはり見るもののココロの持ち様ですね

 

 

今年はなんとはなしにホッとした気持ちになる桜です

 

 

 

 

久しぶりの読書感想文です!

 

遠藤周作 『沈黙』 (新潮文庫

 

 

 

先日シュタイナー講座の後の飲み会で

この本の映画の話になりまして

気になる映画だなとは思ったのですがスルーしていたので

本を読んでみました

どちらかというと映像よりも文章でインプットすることが好きなのです

(映像は他人の想像力だと思っているフシがあります)

 

 

 

 

 

江戸初期島原の乱のすぐ後の九州にポルトガル人の司祭ロドリコが密入国するところから話は始まります

 

 

キリスト教禁教令はますます激しくなっていた時代です

 

こんなに一途に信仰し残忍な拷問に耐え背教の淵に立っているのになぜ神は沈黙しておられるのか

という永遠の主題に向き合った作品です

 

 

(とても個人的なことですが

 祖母の家系は島原の乱のあとにこの地を見張るために三河から移住してきた僧侶だったそうで思想的なこととはまた別に他人事ではない血が関わっていることなのです

 この時代のこの土地と人々とに)

 

 

 

東日本大震災後に東北へお手伝いに行く車の中で話したことがありました

地震津波というこんなに残酷なことがあっていいものなのか

これを黙認するならば神なんていない

という人がいました

 

 

わたしが今時点で考える神とは

森羅万象でありそのエネルギーであり人間の善悪の判断では測ることのできない宇宙の真理のことだと思っています

 

 

そして宗教とは信仰とは一体なんなのかという自分の中の大きなテーマ

 

 

 

そんなことを踏まえて書いてみようと思います

 

 

 

まず人間の残忍さの甚だしさにぞっとするところから始まりました

 

悲惨な拷問の記述は文章で書かれているだけでもそれは恐ろしいもので

冒頭部分を読んだだけで

映画を観に行かなくてよかったと思ったくらいです。。。。

 

肉体的なものだけでなく精神的な拷問もまた筆舌し難いものがありました

 

 

そしてその拷問もさることながら

それを無表情に見に集まる群衆への恐怖

 

 

これは甲乙つけがたい恐怖です

 

 

 

そして庶民の貧しさ

一向一揆を起こした浄土真宗の信徒たちもそうでしたが

圧倒的な貧しさの中で

現生に希望を持つことができず死んで「いるへんの」や「浄土」に行くことだけにしか救いを見出すことのできない世の中

「死」を恐れないむしろ救済とみるその生き様

 

 

書いていて思いますが

これは今の時代にもまさに起きていることですね

 

なぜ人間はこれほどまでに進化することができないのだろうか

どうすればいいかなんてわかっていることなのに

 

 

 

っと先に進みます

 

 

 

 

シュタイナーを学ぶ中で

キリスト教について触れる機会が多くなりました

若松英輔さんや佐藤優さんなどのクリスチャンの方のお話をきく機会も増えました

 

釜ヶ崎と福音』本田哲郎 (岩波文庫

『イエス伝』若松英輔 (中央公論社

などに触れる中で

 

イエスとキリスト教(=教会)とは

別のものだという考え方と出会いました

それにはなぜだかしっくりきた感覚をもちました

 

 

 

 

この本の中で

ロドリコ司祭が監禁され信徒が穴吊りの拷問に呻く声が聞こえる中

踏み絵がそこに控えているところで

司祭の師であり日本で拷問により神を棄てたフェレイラ師がロドリコに言います

 

ロドリコが踏み絵をふめば拷問されている信徒の百姓は助かる

過去に同じ状況の中でフェレイラは信仰を棄てました

 

 

自分が棄教したのと同じ状況でかつての師は教え子に言います

自分が穴に吊られても神を裏切らなかった

しかし穴に吊られてうめき声をあげるあの百姓たちのために祈った

祈り続けたけれど神は何もしなかった

 

 

「(神は彼らに)地上の苦しみの代わりに永遠の悦びを与えるでしょう」というロドリコに対して

 

「自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはならない」

 

「彼らよりも自分の方が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶといえば(棄教すれば)あの人たちは救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼らのために教会を裏切ることが恐ろしいからだ」



「わしだってそうだった。あの真っ暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよという。もし基督がここにおられたら」

 

 

「たしかに基督は、彼らのために、転んだだろう」

 

 

 

 

司祭は足をあげた。足に鈍い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も清らかと信じてきたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。そのとき、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。わたしはお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。

こうして司祭が踏絵に足をかけたとき、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。

 (268ページ)

 

 

 

 

 

いちばん弱くて醜いものに寄り添うイエスという存在

 

 

 

 

神がどうかはわからない

そこに有り体の判断はないのだから

 

 

 

けれど人に『寄り添う存在としてのイエス』というふうに考えると

それは例えば

人誰しもが持つ優しさや慈悲の心思いやり

そして時間もそういうもののように思います 

 

 

そしてゴルゴダ秘蹟についても

 

 

 

 

長くなってきたので

後半へ続きます

 

 

 

 

コトバとココロとマホウ

始めに、すでに言葉(ロゴス)はおられた

言葉は神とともにおられた

言葉は神であった

 

この方は世の始めに神とともにおられた

一切のものはこの方によって出来た

出来たものでこの方によらずに出来たものは、ただの一つもない

この方は命をもち、この命が人の光であった

この光はいつも暗闇の中に輝いている

しかし暗闇のこの世の人々は、これを理解しなかった

 

 

 

 

 

(岩波文庫 新約聖書 福音書 塚本虎二 訳

                  ヨハネ福音書 冒頭部分より)

 

 

 

ひとつ前の方舟に

『言葉と魔法は元々同一のもの』

と書きましたが

 

 

書いた翌朝にいつも読む大嶋信頼さんのブログに

まさかのヨハネ福音書の記述が

 

 

そうそう言葉は神であったんだった!!

と思って

いつも見れるように

今回の方舟冒頭に置いてみた次第でございます

 

 

 

このヨハネ福音書冒頭部分を

シュタイナー的に高橋先生が書いた文章があってそれをさがしていたら

 

 

「深淵は常にわたしを見ている」

ていう過去にわたしが書いたのをつぶやきツイッターで見つけた

 

わたしのつぶやきツイッターはなかなかいろんなことが書いてあるのです!笑

 

主にココロからの言葉なんだけど

 

 

 

 

言葉

 

 

 

なんとなくそういうスパイラルなう

 

 

 

 

「好き」よりも「欲しい」に

フォーカスするとよいみたいです

 

 

 

明らかにお金が入ってくるようになりました

 

 

 

 

言葉を駆使するのは

魔法と一緒

 

 

 

今日はタナボタで高橋優さんのライブ

 

楽しみ!!

 

 

 

 

 

 

花冷えの午後に

桜が凍えちゃいそうな3月の最後から

あっという間の4月が始まってしまった!!!!!

 

 

早すぎませんか?

ついこの前箱根駅伝みてましたけど?

 

 

しかし今日は寒かったです

冬より寒く感じますね

わたしの種たちも凍えてしまっています!!!!!

 

早く会いたいなあ

 

 

 

最近どうもカラダが帯電しているような感覚でして

ぱっとしなくて

寝ても塩風呂に入っても庭にいても

ぱっとしなくて

 

 

 

でもこの寒さといい

何やらココロがさわさわしてみたのできいてみたところ

 

 

この寒さでカラダを覚まして

土とか木とかだよ

とのことでしたので

 

 

寒空のなか

近所の小さな山頂へ行ってみたのです

 

 

ここは5分で登れるお手軽なお気に入りの山です

 

山なのか?笑

 

でもちょっとした林道をちょっと登ると山頂があるので

 

まあ

山です

 

 

触っていいか聞いてから

木にくっついていると

 

木が溜まった電気の放出を手伝ってくれて

 

寄りかかって葉から落ちてくる水滴に濡れながらしばらくくっついていると

だんだん木と一体化してきて

 

 

ああ

根っこは地球を抱いてるんだなあ

そして大地はそんな無数の根っこで支えられてるんだなあ

 

 

そして木は帯電体がくっついていることは

別に嫌なことではなくって

 

わたしがこの寒さにぴりっとするような感覚と同じ感じだよって

ココロが教えてくれましたので

調子にのってベタベタしてきました

 

 

おかげで少し電気を放出できたみたいです

 

 

 

もっと木のところに行きたいな

 

思う今日この頃です

 

 

 

 

昨日

梯谷さんという

『言葉と脳の使い方で病気をやめる』ということをしている方の

ウェブセミナーでした

 

 

また昨日も無料とは思えない内容の濃さで

2時間でノート11ページ

 

書き続けて手がしびれるし

終わった後ぼーっとしちゃう情報量であります

 

 

一番印象的だったのは

 

『言葉と魔法は元々同一のものであり全く同じもの(フロイト)』

 

 

 

 

昨日の内容とともにこのことについてこれから考えていきたいとおもいます

 

 

 

 

ここに真理があることは中世からわかっていたことなんだな

 

だから魔法使いたちは狩られてしまったんだね

 

 

 

 

 

 

 

人の調和と可能性と叡智に向けて

 

 

 

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意味が、あった

今日あった大切な尊敬する友人の話してくれたことを

 

ここにある熱いうちに

 

 

 

 

 

自分がやってやってやりつくして

それでもまだやって

もうこれ以上は本当にできないというところまで

やりつくしたとき

 

奇跡は起こる

 

 

 

 

 

本当に信じられないくらいの奇跡が起きて

もうこれは何かの存在を感じざるをえない

 

 

 

 

彼女は『使徒』だという言葉が浮かびました

 

伝えるためにえらばれたひと

 

 

でも選ばれるということは

それは並大抵のことではなくって

それこそ身も時間も労力もお金も費やして

だれもできないことをしなければならない

自分で必死に努力するしかなくって

苦しくてもつらくてもやめない

喜びも悲しみも絶望も理不尽さもすべて全力でうけとめなければならない

 

 

ひたむきにやる姿をみていたからこそ

その言葉の重さが本当に感じることができて

 

 

 

 

 

これを聞き感じることができただけでも

これを間近でみることができただけでも

 

 

意味があったと

 

 

ココロから

 

 

 

 

 

もしいつか機会があったらみてください

彼女のドキュメンタリー映画

 

 

 

『Life』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春分の後のおひつじ座の新月

いいお天気!!!!

 

今日は種蒔きの日です!!!!

全て蒔き終わりまして大変気分よしです

 

今年のハーブたちは

ネトル(西洋イラクサ

セントジョーンズワート

ニガヨモギ

ホワイトセージ

ブルーセージ

ホーリーバジル

レモンバジル

ワイルドベルガモット

モンベルガモット

レモンユーカリ

 

 

レモン系がナゼか多い!!

 

 

 

 

これから2週間くらいの芽出し時期が毎日どきどきです

 

 

今年は温室でやるので

去年よりもいい感じなのではと思っています

 

 

ちなみに去年蒔いて定植したのは

レッドヤロー

マウンテンミント

サマーセーボリー

モリンガ

ローマンカモミール

レモンバジル

ホーリーバジル

バジルたちは自家採種にも成功して今年も蒔いてとても楽しみな人たちです

レモングラスは越冬が出来ずに大変残念でした

 

 

 

一昨年まいた

コモンセージ

レモン

この人たちは

無事に育っています

 

 

 

 

 

もはや趣味の域ではないような気もする苗ポットの数ですが

 

 

魔法ハーブの庭のために!!!

レモンの森のために!!!!!

 

 

 

夢がありすぎて

これはもはや

大確幸です

 

 

 

 

 

 

そして今日の新月はおひつじ座ということで

願い事をとおもうのですが

 

 

自分の願い事がいまいちわからない今日この頃です

 

 

しかしですね昨日おもいついたことがあるのです

 

 

これはココロに聞くのがよいと!

 

 

自分の感覚と繋がってココロと話ができるようになってくることで

他の人とも繋がることができるようになるのですが

 

 

 

それを応用して

自分としっかり繋がることができるなとおもったのです

 

 

 

本当に自分なのだとおもいます

 

純粋な自分

 

それがとても大切なことなような気がします

 

 

 

まだ陽も高いのですが

なぜか眠い!!!

 

 

霊界からの招待状とおもって感覚に任せるぞ!!!

 

 

 

こんなときのアファメーション

『起きた時に顕在意識にそれを残してわたしがわかるようにしてください』

 

 

 

もはや自分の中のことです全て

 

 

 

 

『環境とは外の世界の状況のことではなく

自分の中の風景のことだ』

 

 

 

先日ココロが教えてくれたことです

 

 

 

これについて考えています

 

 

 

感覚にガチでむきあうこと