バガヴァット・ギーター その2

ちょっと前に書いたブログをちらっと読み返して気づいたこと

 

 

後でまとめて書こうって思ったことの多いこと多いこと

そしてそれ

 

書いてないし

 

 

まあいいか

諸行無常だねとよくわからないことを思ってみたのですが

 

続きをいきます

 

 

 

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

 

 

第2章です

 

 

「わたしは戦わない」といって座り込んだアルジュナにたいして

クリシュナは言います

 

この世界を遍く満たすものを不滅であると知れ。この不滅であるものを滅ぼすことは誰にもできない

 

彼は殺さず、殺されもしない。

彼は決して生まれず、死ぬこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存ずる。身体が殺されても、彼は殺されることがない。

 

主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く。

 

あらゆる者の身体にあるこの主体(個我)は、常に殺されることがない。それ故あなたは万物について悩むべからず。

 

 

み>

うむ。。。。

般若心経的なことを話していて

それはそうだと思うんだけど

だからといって殺していいことにはならないような気がするんだよなあ

 

 

続けて

 

クシャトリヤ(王族、士族)にとって、義務に勝る戦いに勝るのもは他にはないから。

もしあなたがこの義務に基づく戦いを行わなければ、自己の義務と名誉とを捨て、罪悪を感じるだろう。

人はあなたの不名誉を永遠に語るだろう。

 

苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものとみて、戦いに専心せよ。そうすれば罪悪を得ることはない。

 

ここまでで理論(サーンキヤ)における知性を話した

とあるけど。。。

 

み>

いやそれでも殺すよりもいいんじゃあないかなあ

 

という疑問はまだまだ深まるばかり

だってこの理論ってどこかイスラム原理主義者が言ってるらしいことを思い出しちゃうしなあ

 

 

再び続けてクリシュナは

 

あなたの職務は行為そのものにある。

決してその結果にはない。

行為の結果を動機としてはいけない。

また無為に執着してもいけない。

知性をそなえた人は、この世で善行と悪行をともに捨てる。

行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、患いのない境地に達する。

 

 

アルジュナは質問します

叡智が確立した人はどのように語り、どのように坐し、どのように歩むのか

 

意にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)においてのみ満足するとき

その人は智慧が確立したと言われる。

ここにおいての欲望とは

不幸を悩まず幸福を切望せずすべてのものに愛着なく種々の善悪も捨て喜びも憎みもしないひと

だといいます

これがブラフマンの境地である

と。

 

 

 

先日新しくできたずっと知っていたような感覚の友人の家に遊びに行ったときに

おすすめいただいてサティシュ・クマールの

『今、ここにある未来』というDVD付きの本をお借りしました

 

とてもよい啓示にみちた本でした

 

 

サティシュ・クマールの今、ここにある未来with辻信一 [DVD]

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なにげなくみていたら

ここでもバガヴァット・ギーターについて語られていました

 

 

 

彼はギーターについて

「行為の結果ではなく、行為そのものに目を向けよ」というところと

上に書いたアルジュナの質問について話されていました

『もし私たちがいかに食べ、座り、眠り、歩くかを知ってさえいれば

現代世界の諸問題は解決済みだと考えている』

とサティシュは言っています

 

 

 

今やすべては必然のもとにおこります

 

 

この意味を

なぜ今なのかの意味を

ある日突然理解するでしょう

 

 

読書は続く♪