深淵

暖かい冬です

この穏やかさが怖くもあるのですが
これは多分大切な必要なことなのでしょう
 
 
そんな中で今最もアツい
 
 
「深淵」についてです
 
 
最近のテーマであります
 
 
 
だから昨日ひとさんからこの言葉がいきなり出てきたとき本当に驚きました
何故わかるのか
さすがや
 
 
 
なので一度考えてみたいとおもいます
 
 
 
言われたこととは
 
 
 
深淵を覗こうとする者は
深淵からも覗かれる
 
 
 
これは調べたところ
ニーチェの言葉で
 
 
 
 
『怪物と戦う者は、自分も怪物にならないよう注意せよ。
長く深い深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込む。』
(「善悪の彼岸」ニーチェ箴言と間奏146」)
 
 
この前高橋先生と佐藤優さんは
最も深い深淵にこそ神は宿る
 
それは
人間の底辺のそのまた底辺
一番神から繋がらなそうなところに神は降りてくる
ということだと
 
地獄の底に導かれてゆく
そこからしか神秘の扉はひらかない
絶望からしかうまれない
 
 
と話しました
 
 
ひとさんは
深淵に魅入られるなといいます
 
 
 
王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた
 
そして
 
命は闇の中にまたたく光だ
 
 
 
 
てゆうか深淵とは何かなあ
 
 
 
深淵(しんえん)とは、深い淵や水の深く淀んだ場所を指す語。フレッド・ゲティングズ著『悪魔の辞典』によると、悪魔学においては「進化の終着点」を意味し、すなわち人間の行き着く最後の未来を意味する。これから連想が進み、ヨハネの黙示録アバドンといったイメージになった。カバラの学者は深淵をマサク・マヴディルと表現し、落伍者の行き着く場所と解釈している。wikiより
 
 
 
ひとさんは多分
死のその先みたいなイメージとしていっているのだろうなと思うのです
 
 
それに魅入られそれを求めることは
生きることを放棄することに繋がると
 
 
 
 
確かにそれもそうともおもうのです
 
 
 
 
なんとなくわたしはこう考えているようです
 
 
 
 
深淵とは
 
善悪も虚無も生死も幸福も愛も喜びも絶望も恐怖も
 
そういうものを全てごた混ぜにしたカオスの
 
その最も底のことなのではないかと
 
 
 
それはある意味では自我というものを持ってしまった人間の
意識の一番底のことなのでは
 
 
 
 
深淵を覗くことで向こうから覗き返してくるものとは
本来の自己
またの言い方だと第二の自己
なのではないでしょうか
 
魅入られるものも魅入るものも自分なのではないか
だから全ては自分の中にあるのではないのかなと
 
 
 
 
 
そこに差し込む光は神であり
 
神は命の煌めきであり
 
叡智の光だと
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今なんとなくこの気候とリンクするかの如くわたしが穏やかなのです
 
 
 
それは善悪という二元の罠のことがわかったようなきがすることと
 
ありのままの自分自身を信じることが出来るようになったきがすること
 
それが大きいような気がします
 
 
 
どんなに流れがはやくなろうとも
それが滅びを伴う変容であろうとも
そのために全てを失うことが起ころうとも
 
それを受け入れること
その過程にこそ意味があるということ
 
 
そして
 
その道の途中ではあくまでも中庸を手放さないということを
 
全ては自分の中にあるということを
 
 
 
 
 
 
しかし何故わたしはこんな迷宮みたいなところに入り込んでしまったのだろうか