『沈黙』

春爛漫の今日この頃

あったかいということは大きな確かな幸せですね

 

凍えていた桜たちも

やっと安心したように開いているのをみると嬉しいですね

 

毎年桜の感じが違うようにみえるのは

やはり見るもののココロの持ち様ですね

 

 

今年はなんとはなしにホッとした気持ちになる桜です

 

 

 

 

久しぶりの読書感想文です!

 

遠藤周作 『沈黙』 (新潮文庫

 

 

 

先日シュタイナー講座の後の飲み会で

この本の映画の話になりまして

気になる映画だなとは思ったのですがスルーしていたので

本を読んでみました

どちらかというと映像よりも文章でインプットすることが好きなのです

(映像は他人の想像力だと思っているフシがあります)

 

 

 

 

 

江戸初期島原の乱のすぐ後の九州にポルトガル人の司祭ロドリコが密入国するところから話は始まります

 

 

キリスト教禁教令はますます激しくなっていた時代です

 

こんなに一途に信仰し残忍な拷問に耐え背教の淵に立っているのになぜ神は沈黙しておられるのか

という永遠の主題に向き合った作品です

 

 

(とても個人的なことですが

 祖母の家系は島原の乱のあとにこの地を見張るために三河から移住してきた僧侶だったそうで思想的なこととはまた別に他人事ではない血が関わっていることなのです

 この時代のこの土地と人々とに)

 

 

 

東日本大震災後に東北へお手伝いに行く車の中で話したことがありました

地震津波というこんなに残酷なことがあっていいものなのか

これを黙認するならば神なんていない

という人がいました

 

 

わたしが今時点で考える神とは

森羅万象でありそのエネルギーであり人間の善悪の判断では測ることのできない宇宙の真理のことだと思っています

 

 

そして宗教とは信仰とは一体なんなのかという自分の中の大きなテーマ

 

 

 

そんなことを踏まえて書いてみようと思います

 

 

 

まず人間の残忍さの甚だしさにぞっとするところから始まりました

 

悲惨な拷問の記述は文章で書かれているだけでもそれは恐ろしいもので

冒頭部分を読んだだけで

映画を観に行かなくてよかったと思ったくらいです。。。。

 

肉体的なものだけでなく精神的な拷問もまた筆舌し難いものがありました

 

 

そしてその拷問もさることながら

それを無表情に見に集まる群衆への恐怖

 

 

これは甲乙つけがたい恐怖です

 

 

 

そして庶民の貧しさ

一向一揆を起こした浄土真宗の信徒たちもそうでしたが

圧倒的な貧しさの中で

現生に希望を持つことができず死んで「いるへんの」や「浄土」に行くことだけにしか救いを見出すことのできない世の中

「死」を恐れないむしろ救済とみるその生き様

 

 

書いていて思いますが

これは今の時代にもまさに起きていることですね

 

なぜ人間はこれほどまでに進化することができないのだろうか

どうすればいいかなんてわかっていることなのに

 

 

 

っと先に進みます

 

 

 

 

シュタイナーを学ぶ中で

キリスト教について触れる機会が多くなりました

若松英輔さんや佐藤優さんなどのクリスチャンの方のお話をきく機会も増えました

 

釜ヶ崎と福音』本田哲郎 (岩波文庫

『イエス伝』若松英輔 (中央公論社

などに触れる中で

 

イエスとキリスト教(=教会)とは

別のものだという考え方と出会いました

それにはなぜだかしっくりきた感覚をもちました

 

 

 

 

この本の中で

ロドリコ司祭が監禁され信徒が穴吊りの拷問に呻く声が聞こえる中

踏み絵がそこに控えているところで

司祭の師であり日本で拷問により神を棄てたフェレイラ師がロドリコに言います

 

ロドリコが踏み絵をふめば拷問されている信徒の百姓は助かる

過去に同じ状況の中でフェレイラは信仰を棄てました

 

 

自分が棄教したのと同じ状況でかつての師は教え子に言います

自分が穴に吊られても神を裏切らなかった

しかし穴に吊られてうめき声をあげるあの百姓たちのために祈った

祈り続けたけれど神は何もしなかった

 

 

「(神は彼らに)地上の苦しみの代わりに永遠の悦びを与えるでしょう」というロドリコに対して

 

「自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはならない」

 

「彼らよりも自分の方が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶといえば(棄教すれば)あの人たちは救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼らのために教会を裏切ることが恐ろしいからだ」



「わしだってそうだった。あの真っ暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよという。もし基督がここにおられたら」

 

 

「たしかに基督は、彼らのために、転んだだろう」

 

 

 

 

司祭は足をあげた。足に鈍い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も清らかと信じてきたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。そのとき、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。わたしはお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。

こうして司祭が踏絵に足をかけたとき、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。

 (268ページ)

 

 

 

 

 

いちばん弱くて醜いものに寄り添うイエスという存在

 

 

 

 

神がどうかはわからない

そこに有り体の判断はないのだから

 

 

 

けれど人に『寄り添う存在としてのイエス』というふうに考えると

それは例えば

人誰しもが持つ優しさや慈悲の心思いやり

そして時間もそういうもののように思います 

 

 

そしてゴルゴダ秘蹟についても

 

 

 

 

長くなってきたので

後半へ続きます