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『沈黙』後編

前の記事『沈黙』から続きです

 

 

やっとあたたかくなってきて

先週のおひつじ座新月の日に蒔いた種から芽がでました

 

冷蔵庫に入れて水に浸して準備していた今年の大本命のホワイトセージと

去年2度蒔くも2度とも発芽しなかったニガヨモギ

今年の一番乗りの芽を出しました

 

うれしい

 

 

 

このワクワクが芽とともに大きくなって

魔法ハーブの庭になるのです

 

うふふ

 

 

 

 

 

ということで『沈黙』続きです

 

 

もうひとつ

とても気になるポイントがあったんです

 

 

 

ロドリゴが長崎でフェレイラ師に再会したところで話されたことです

 

「この国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということ」

 

キリスト教信仰は日本で広まったというロドリコに対して

 

「この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思い込んでいた」

 

「おそらくだれもこの言葉を信じてもらえまい。お前だけでなく、ゴアやマカオにいる宣教師たち、西欧の教会すべての司祭たちは信じてはくれまい」

 

「はじめは少しも気づかなかった。だが聖ザビエル師が教えられたデウスという言葉も日本人たちは勝手に大日とよぶ信仰に変えていたのだ。陽を拝む日本人にはデウスと大日はほとんど似た発音だった」

 

通訳の言葉の壁の問題ではないと

日本人は彼らの神を日本人流に屈折させ変化させ

そして別のものを作り上げはじめたのだ

 

 

あれは神じゃない

蜘蛛の糸にかかった蝶そっくりだ

はじめはその蝶はたしかに蝶にちがいなかった

だが翌日それは外見だけは蝶の羽と胴をもちながら

実態を失った死骸になっていく

我々の神も既に実態のない死骸になってしまった

 

 

「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」

 

 

 

 

 

キリスト教に触れたのは幼稚園と小学校低学年の日曜学校だったので

彼らの「神」についてわからないのです

 

でも彼らは三位一体

父と子と聖霊

そのうち「聖霊」は教会に行かないと会えないものとすることで

教会の存在を拡大していったと

シュタイナーのクラスで先生が話されていました

聖霊は人のなかに宿っているという考えのグノーシス派は異端とされています

 

 

 

 日本人は聖霊は万物に宿っていると考えているのではないかと思います

 

 

 

そして日本人の

そとから入ってきたものを

自分たちの世界に馴染むもにに変換していくこの力とは一体なんなのだろう

 

 

 

  

 

でもフェレイラ師はこの日本人の精神を『沼地』と呼びました

彼らの宗教はそこで腐ってしまった

 

 

 

 

 

 

 

 

でもね言ってみたら究極それは個人の思想であり国や国民性も関係するけどそれ以前個人の中に独自のものはあり

そこから生えてくるどんなものでもすべて自由で美しく

 

 

だって世界は宇宙は多様なのだから

 

 

そこに至るには誰にもわからない積み重ねた歴史があるのだから

 

 

それは聖職者でも権力者でも侵すことはできない

 

 

 

その多様さを認め

美しいと

尊い

思う心が

寄り添うことが

 

 

それが

 

 

 

もしかしたら『イエス』なのかもしれないと思うのです

 

 

 

 

ひとが皆

イエスになることが出来たとき

 

 

 

世界は初めて『神』を見るのかもしれない

 

 

 

 

人間の中の根源的な神の存在

 

 

 

今そういうところ立ち返る必要があるように思います

 

 

 

 

 

人は一人では生きられない

 

 

それは同じ人間という種族間だけでなく

 

この大地

木や草や土や鉱物

いろんな動物や魚や虫

息づく菌

大気や水や流星

そして太陽や月や星

 

 

森羅万象全てがあって

全ての存在が生きることができるのではないかと思うのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

予想だにしなかった形でまとまってしまった!!!!!!

 

 

でもとてもすっきりしました!!!!

 

 

 

 

 

これもココロの仕業でしょうか

 

 

 

 

 

 

生きとし生けるものが幸せでありますように