永遠

毎日があっというまに過ぎていく気がするのですが

みなさま如何おすごしでしょうか

 

ウエサク満月も終わって

夏至にむけてまっしぐらです!!!

 

 

月の運行を意識していると

ほら

月は晴れていれば毎日形をかえて見えるから

 

クロノス的時間の感覚を感じるための時計とカレンダーを持たない暮らしでも

iphoneはあるけど)

時の流れを感じるのです

 

 

 

 

そんなこんななウエサク

おもしろかったです

 

 

いつか鞍馬寺のウエサク祭に行こうと思います!!!

 

 

 

 

 

先週はシュタイナーの講義の夜でした

 

毎回思いますが

この講義

今のわたしのためのメッセージが要所に織り込まれていて

それはもう

気持ちの面でも

思考の面でも

大変忙しい2時間なのです

 

 

 

『瞬間の中にこそ永遠がある』

 

ニーチェの言葉だと先生はおっしゃいました

 

今回のテーマはこのことばでした

 

 

『神智学』

ルドルフシュタイナー著 高橋巌訳

55P〜56P

 

魂はこの光の中に生きる限り 永遠の存在を分有している

魂は自分の存在をこの永遠の存在に結びつける

 

 

この光

とは

自分の好き嫌いや感情を超越したところで永遠の霊から差し込む光のこと

 

 

 

シュタイナーは人間の構成を

『体・魂・霊』に分けています

 

体=肉体

 

魂=その個人の自我や人格、精神、個人に宿っているもの  霊と体を繋いでいる

 

霊=大いなるもの、集合的な意識、生まれる前、死後に居るところ

 

 

 

この光

とは

大いなるもの(=霊)に差し込むもっと大元のところからの光

ということになるでしょうか

 

 

永遠なるものは一瞬一瞬の衝動の中に現れる

 

そして

 

人間の中の最も人間的な衝動

自分の中の一番嫌だと思う部分

そこに降りてくるのが

キリスト

 

 

これは『沈黙』といういくつか前のブログでも考えていたことで

 

一番醜く小さきものにキリストは寄り添う 

 

 

 

 

 

瞬間の中に永遠が在る

 

この一瞬を深く深く感じることで

全てを永遠にすることができる

 

それは深淵に差し込む光

ココロの一番奥底の闇にに差し込む光

 

 

わたしのなかの一番みにくいところから出てきた

それでもとても純粋なもの

大切なもの

 

人倫に当てはめたらこれは『真』でも『善』でもない

 

でもわたしの深淵にとってのこれは『美』にあたるのです

 

 

それが永遠になる

 

 

それこそが愛の光

 

 

愛しきる

生ききる

 

 

 

 

 

生きるということは

この瞬間をつみかさねていることで

それは何にも代えられない

とてもとても大切なことなのです

 

 

 

自分を生きる

 

 

 

そしてこのクラスの中で先生がおっしゃったこと

 

 

シュタイナーは『毎日変わった人』だった

昨日考えたことと今日は違う

いつ何が起こるかわからない

「不変」はない

 

 

 

瞬間を重ねていくことは

そういうことなのかもしれない

 

だからかたくなる必要も決めてしまう必要もない

いつも流れるままに

 

 

 

 

 

 

カイロス的時間は

そうして今この一瞬に存在している

 

 

 

 

 

月の宴

早いものでGWも終わり

初夏の日差しの毎日です

 

 

はい

大変ご無沙汰になっております

方舟であります

 

 

なんでしょうねこの全く文章がかけなくなる時期というものは。。。

別に何があるわけでもないのですよ

ただ

ただ

なにも書けない!!!!

 

 

そんな時期も脱してきた模様であります

 

 

今回のタイトルにもした

『月の宴』

 

以前より新月と満月になにかイベントをしたいと思っていて

4月のおうし座の新月からはじめてみています

この宴♪

 

以前『すなっくきりぎりす』というイベントをしていて

そのときは相方のなおこと一緒にずいぶん楽しい大掛かりなパーティをしていました

しかしこれもはじまりは2人で

テーマを決めてしっとり楽しくゴハンをたべて話す

という会合だったものが

どんどん規模を拡大していったものでした

 

 

今回の『月の宴』は一人で思い立って始めるイベントですから

前回は種を蒔く土壌をつくる

みたいなことをしてみまして

 

 

今回は種蒔き的な立ち位置になるのでしょうか

 

 

庭の花たちが綺麗で

ジャスミンが香り

 

夏も近づく八十八夜に庭で茶摘みした茶葉を

独自の方法でお茶にしたものがあり

(ものすごく強烈なものができてしまった 笑)

 

ちまちまつまむ瓶詰めおつまみがあって

 

おいしいお酒とハーブを使ったのみものがあって

 

ゆるりと流れる時間を過ごす

 

 

場所は葉山です

 

うちを『Laule'a HAYAMA』というサロンにして

毎回だいたい新月満月の日かその前日の夕方から開催します

 

 

 

今後の日程

 

 

 

5月10日11日

月の宴 ウエサク満月

 

 

5月25日

月の宴 ふたご座新月

 

 

6月8日

月の宴 夏至の前の満月

 

 

6月24日

月の宴 あたらしい扉をくぐった新月(仮)

 

 

 

 

 

お気持ちお時間あいましたら♡

 

 

 

 

Laule'aとは

ハワイ語で幸福や平和を意味することばです

 

 

 

 

 

 

幸せや平和を生きるきっかけになる時間と場所で

 

 

 

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諦めないで

幸せに気持ちの良い春の一日

 

 

春っていいなって思いますね

芽吹いた緑の美しいこと

地面をみるといろんな植物が小さな花を咲かせていること

 

 

ほら世界はこんなに美しい

 

 

耳をすますとそんなつぶやきが聞こえてきそうです

 

 

 

昨日は第三回魔女会でした

 

今世では魔女狩りに会うことなく(?)

魔法ネットワークで繋がることができて

大変幸せな時代ですなあ

 

 

でも『魔女会』だと他の妖精ダイプとか宇宙人タイプとかetc.....

の方々に参加してもらえないから

会のネーミングを変えようという提案です

 

さてさてどんなタイトルになるのか

 

お知らせ待ちです

 

 

今回はうちで開催でした

我が家のこけら落としでした

 

最初のゲストを誰にするかということは大変大切なことなので

彼女達が来てくれて

本当によかったと思います

 

 

いろんなことがわかる魔女友が

 

おばあちゃんが今からわたしがやろうとしていることにとても喜んでくれていると伝えてというメッセージをくれました

 

なんだかとても嬉しい

 

おばあちゃんちの血を自分に感じるので

今のわたしをわかってもらえて嬉しいなと思うのです

 

 

 

今回は友人を介してもらったメッセージでしたが

 

耳をすませば気をつけていれば

きっと世界はメッセージに溢れているのだとおもうのですね

 

 

素晴らしきこの世界

 

 

 

そんなメッセージのひとつです

 

 

これはできるだけたくさんの人に届くといいなって思っています

 

 

 

******************************

 

今の人生を諦めないで

 

人間はずっとこの今の人生を諦めて

次に期待し続けて生きてきた

 

けれど

 

そうじゃない

 

今を諦めないで

 

自分を明け渡さないで

 

幸せになるために

ここにきた

 

******************************

 

 

 

過去とても苦しく辛い時代

疫病や貧しさ命の軽さ

宗教的に命を落とすこと

自害することが美徳とされたこと

 

 

今は辛くとも

来世は

天国にいけば

極楽にいけば

 

苦しみから脱して幸せになれる

 

 

そんな時代から

 

命の危機がすぐそこにあった時代からは考えられない

豊かな物質世界で

 

自分に

自分の状況に

生活に

 

 

なんの希望も持たなくなって

ひとりぼっちで

哀しみや寂しさの中で

 

 

ただ必死に生きている

どうしょうもない怒りや絶望を抱えて

 

 

社会や会社や仕事や生活やローン

妻や夫や親や子や恋人や友達

学校や先生や地域や病

土地や国や神様や宗教

 

いろんなものに

自分を明け渡して

誰かの基準の人生を生きている

 

 

 

 

でもね

わたしたちは

せっかく今ここに来ている

産まれてくることは悦びだったはずなんだ

 

 

 

 

 

わたしは諦めないよ

 

誰がどう思っても

わたしはわたしを生きる

 

 

どうなるかなんてわからない

 

でも諦めなければ

自分を明け渡してしまわなければ

人生の主体は自分だって分かっていれば

 

 

 

世界はかわる

 

 

 

 

人は

可能性のかたまりなのです

 

 

 

想像しているよりも

はるかにたくさんの

 

力を持っている

 

 

 

だからね

諦めないで今の自分を今の人生を

 

 

 

自分を生きるだけで宇宙は世界は神は生きる

 

 

 

あなたのココロが

世界を宇宙を神を生かしている

 

 

 

 

 

 

 

なんだかわからないけれど

こんなメッセージが

やってきました

 

 

 

 

幸せはここにあるよ

 

 

 

 

 

もうひとつ最後に

 

 

 

 

誰かの人生を命を

諦めさせないでね

 

 

 

 

 

 

 

どうか届きますように

 

 

 

 

 

 

春爛漫 そして 示唆と

暖かい毎日がやってきましたね!!!!

長いこと咲いてくれていた桜ももうすぐおわりだけど

いろんなお花たちがどんどん咲いてきます!!!!

 

もうすぐ

明日にでも

セージが咲きそうです

大きな蕾がたっくさんついています

 

これは結構大きな確かな幸せですね

 

 

 

そしてそしてそして!!!


本年の種まきでありますが!

 

 

 

なんとッ!!


 

 

全ての種族が!!!

 

 

発芽でございます!!!!

 

 

 

いやあ〜

寒かったから心配してのですが

3年目にもなると

上手くなるものですね♪

 

 

このままいけばレモンユーカリの林です!!

 

 

さらば!蚊!

 

(蚊はユーカリが嫌いだという情報を得ましてね♡)

 

 

嫌いの嫌いは好きなのです!

 

 

 

法の庭

 

 

 

 

そんな植物だだはまりの毎日ですが

 

先日とても素敵なところに行ってきました

 

 

 

草舟 on earth

 

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草の籠編みのワークショップに行ってきたのです

美味しい草弁当つき!

 

 

 

近所ですが

友人に教えてもらうまで全く知りませんでした

 

 

どうやら泉鏡花の『草迷宮』という小説の舞台にもなっているそうです

 

 

 

この日山に入る前にこの麓の海にご挨拶です

 

 

ちょんと海にさわって気をならしてから向かったのですが

 

山に入るところの道に

たぬきが車に轢かれてしまっていました

 

 

最初ねこかと思ったのですがじっとみると見たことない様相で

体に毛がなくなっているのです

 

三浦半島のたぬきは狂犬病が蔓延してしまって一時は絶滅してしまったと言われていてでも最近たまに見かけるようになっていたのですが

毛がなくなってしまっている子がいるのです

 

その子もそんな一匹で

 

本当は車道から連れて来たかったのですが

できずに

役所に電話することだけでした

 

 

最初はね

あーなんでこんなときにこんなところで。。。。

って思っちゃったんだけど

 

でも

自然の中に入ろうとするときに

その入り口でその子が死んでその姿を見せていることは

そういうことなのだと

 

 

その日の参加者さん達はみんなその子を心に抱きながら

その庭に集まりました

 

 

草で紐をつくったり籠を編んだりしていると

手仕事が好きなんだなって思いました

籠編み楽しい!

 

 

そこのおうちの

ひなちゃんという白猫も

全ての植物も見える海も山も

全ての調和が美しいところでした

 

 

でも最初のショックで入りきれずで

でもこれもご縁とおもいました

 

 

その場所は本当にスピリット達の住処で

もしかしたらのみ込まれていたかもしれないねと

 

 

大切と思う場所がまたひとつ加わりました

 

 

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その日に話の流れで

この漫画を教えてもらいました

 

 

海獣の子供 全5巻完結セット (IKKI COMIX)

海獣の子供 全5巻完結セット (IKKI COMIX)

 

 

 

 

 

今読み終わって

 

今回の『草舟に行く』が一段落

 

 

もしかしたら次回感想を書くかもです

 

 

すごいものをよみました

(すごくてちょっとぐったり 笑)

 

 

 

 

ここのところ

自分の愚かさ醜さにおののきつつ

 

 

でも先日のシュタイナー講座のときにココロが教えてくれたことを最後に

 

 

 

 

 

 

自分と向き合って

中に中に

 

その自分を客体化してみること

 

自分の中からぞろぞろでてくるものを

じーっとみる

観察すること

 

 

 

もうひとつ

 

 

 

 

 

 

『踊るんだよ』

 

 

 

 

 

 

 

 

スピード

やっと桜が咲いて

近所の「桜山」は薄靄がかかったようなファンタジーな姿をみせるはずが

南風の影響の本靄がかかって

しっとりした1日でした

 

 

そして今は強風

 

もう少し桜を愛でたいなとおもうのです

 

 

重要な何かを選ぶとき

どうやって選びますか

 

 

例えば

仕事

友達

趣味

恋人

 

 

直感

経験

現実感

好き嫌い

方位

 

選ぶ?

 

 

 

 

先日の春分を超えてから

変革期がひたひたと満ち潮のようにやってきているみたいででして

 

今までふつーだったものが

突如として違和感を感じたり

 

そして新しい選択肢が目の前に出てくる

 

 

じゃあそれどうやって選ぶ?

 

 

っていう話を昨日友人としていたわけです

 

 

 

 

 

 

ここ最近見つけたものを

ずるずる引きずり出して

検証しているのですが

 

 

ものすごいネガティブな『潜在意識の器』の中に

ものすごいポジティブなものが入っている自己構造に気づきました

 

 

 

 それにより

日常に溶けている見ないようにしていた違和感や喜びや嫌悪などの感情を

客観的に発見しはじめたのです

 

 

 

 

っていうところでなにをどう選ぶの?

 

 

 

 

会合の最後に友人から

 

『愛で選ぶ』と出てきました

 

でも今どうしてもそれ腑に落ちなくって

もやもやもやとしたまま朝を迎えました

 

 

 

そして朝刊の「折々の言葉」

石井ゆかりさんの文章をみつけました

 

 

iyukari.hateblo.jp

 

 

 

最初と最後だけ

 

自分の中の『NO』を知っていることが

羅針盤になることもあるのだ

(中略)

『やりたくない』ことを一つ一つ外したのち

今の道を選んだ

 

 

 

やりたいことよりも

やりたくないことのほうが

たくさん出てきていたのです

 

 

 

何故ならば

客観視することで

『器』の書き換えを行ったから

自分の現状の状況が

書き換えた『器』にいきなり合わなくなっているのです

 

 

 

でもそれって『愛で選ぶ』じゃなく

これじゃあ『自分さえよければいいで選ぶ』じゃあないかい!!

 

 

っていうもや靄もやを

 

ゆかりさんが励ましてくれました

 

 

 

 

『やりたくない』を客観的に見るということは

自分に対して責任を持つということ

自分の嫌なところ出来ないところを見つめるということ

 

 

 

自分が纏ってきた本来の自分に嘘をつくためのはごろもを

一枚一枚

玉ねぎの薄皮を剥ぐように

外していくこと

 

 

外せば外すほど

隠していた見ないようにしていた己の邪悪さが

ずるずるとでてくること

 

 

 

そしてジャストなう

ココロから

「自分に対する愛で選ぶってことですよ」

って出てきましたけど

 

 

無理して我慢して辛い思いをしてきたことを

見つけて認めて見送る

灯籠流しみたいに

 

 

 

『器』を書き換えたことで

別のタイムラインにうつったのです

 

 

この世はパラレルワールドだから

 

 

過去の傷に向き合い手放すことで

 

 

今が変わる

 

 

そして答えがやってくるスピードが

どんどん早くなってくる

 

 

 

 

 

 

『器』

とは

「メタモ意識」のことであり

「デフォルトコンテクスト」のこと

 

 

わかりやすい説明がやってきました

 

 

www.watashi-kigyou.com

 

 

 

 

 

 自由に選んで

自分の道をあるいたらいい

誰に遠慮することもなく

ただ自分に正直に

手を出すことができるのは

自分のことだけ

そして誰も自分に手出しはできない

尊敬と尊重を常にここに

本来の自分を生きるのです

 そのためにここにいるのだから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『沈黙』後編

前の記事『沈黙』から続きです

 

 

やっとあたたかくなってきて

先週のおひつじ座新月の日に蒔いた種から芽がでました

 

冷蔵庫に入れて水に浸して準備していた今年の大本命のホワイトセージと

去年2度蒔くも2度とも発芽しなかったニガヨモギ

今年の一番乗りの芽を出しました

 

うれしい

 

 

 

このワクワクが芽とともに大きくなって

魔法ハーブの庭になるのです

 

うふふ

 

 

 

 

 

ということで『沈黙』続きです

 

 

もうひとつ

とても気になるポイントがあったんです

 

 

 

ロドリゴが長崎でフェレイラ師に再会したところで話されたことです

 

「この国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということ」

 

キリスト教信仰は日本で広まったというロドリコに対して

 

「この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思い込んでいた」

 

「おそらくだれもこの言葉を信じてもらえまい。お前だけでなく、ゴアやマカオにいる宣教師たち、西欧の教会すべての司祭たちは信じてはくれまい」

 

「はじめは少しも気づかなかった。だが聖ザビエル師が教えられたデウスという言葉も日本人たちは勝手に大日とよぶ信仰に変えていたのだ。陽を拝む日本人にはデウスと大日はほとんど似た発音だった」

 

通訳の言葉の壁の問題ではないと

日本人は彼らの神を日本人流に屈折させ変化させ

そして別のものを作り上げはじめたのだ

 

 

あれは神じゃない

蜘蛛の糸にかかった蝶そっくりだ

はじめはその蝶はたしかに蝶にちがいなかった

だが翌日それは外見だけは蝶の羽と胴をもちながら

実態を失った死骸になっていく

我々の神も既に実態のない死骸になってしまった

 

 

「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」

 

 

 

 

 

キリスト教に触れたのは幼稚園と小学校低学年の日曜学校だったので

彼らの「神」についてわからないのです

 

でも彼らは三位一体

父と子と聖霊

そのうち「聖霊」は教会に行かないと会えないものとすることで

教会の存在を拡大していったと

シュタイナーのクラスで先生が話されていました

聖霊は人のなかに宿っているという考えのグノーシス派は異端とされています

 

 

 

 日本人は聖霊は万物に宿っていると考えているのではないかと思います

 

 

 

そして日本人の

そとから入ってきたものを

自分たちの世界に馴染むもにに変換していくこの力とは一体なんなのだろう

 

 

 

  

 

でもフェレイラ師はこの日本人の精神を『沼地』と呼びました

彼らの宗教はそこで腐ってしまった

 

 

 

 

 

 

 

 

でもね言ってみたら究極それは個人の思想であり国や国民性も関係するけどそれ以前個人の中に独自のものはあり

そこから生えてくるどんなものでもすべて自由で美しく

 

 

だって世界は宇宙は多様なのだから

 

 

そこに至るには誰にもわからない積み重ねた歴史があるのだから

 

 

それは聖職者でも権力者でも侵すことはできない

 

 

 

その多様さを認め

美しいと

尊い

思う心が

寄り添うことが

 

 

それが

 

 

 

もしかしたら『イエス』なのかもしれないと思うのです

 

 

 

 

ひとが皆

イエスになることが出来たとき

 

 

 

世界は初めて『神』を見るのかもしれない

 

 

 

 

人間の中の根源的な神の存在

 

 

 

今そういうところ立ち返る必要があるように思います

 

 

 

 

 

人は一人では生きられない

 

 

それは同じ人間という種族間だけでなく

 

この大地

木や草や土や鉱物

いろんな動物や魚や虫

息づく菌

大気や水や流星

そして太陽や月や星

 

 

森羅万象全てがあって

全ての存在が生きることができるのではないかと思うのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

予想だにしなかった形でまとまってしまった!!!!!!

 

 

でもとてもすっきりしました!!!!

 

 

 

 

 

これもココロの仕業でしょうか

 

 

 

 

 

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

 

 

 

『沈黙』

春爛漫の今日この頃

あったかいということは大きな確かな幸せですね

 

凍えていた桜たちも

やっと安心したように開いているのをみると嬉しいですね

 

毎年桜の感じが違うようにみえるのは

やはり見るもののココロの持ち様ですね

 

 

今年はなんとはなしにホッとした気持ちになる桜です

 

 

 

 

久しぶりの読書感想文です!

 

遠藤周作 『沈黙』 (新潮文庫

 

 

 

先日シュタイナー講座の後の飲み会で

この本の映画の話になりまして

気になる映画だなとは思ったのですがスルーしていたので

本を読んでみました

どちらかというと映像よりも文章でインプットすることが好きなのです

(映像は他人の想像力だと思っているフシがあります)

 

 

 

 

 

江戸初期島原の乱のすぐ後の九州にポルトガル人の司祭ロドリコが密入国するところから話は始まります

 

 

キリスト教禁教令はますます激しくなっていた時代です

 

こんなに一途に信仰し残忍な拷問に耐え背教の淵に立っているのになぜ神は沈黙しておられるのか

という永遠の主題に向き合った作品です

 

 

(とても個人的なことですが

 祖母の家系は島原の乱のあとにこの地を見張るために三河から移住してきた僧侶だったそうで思想的なこととはまた別に他人事ではない血が関わっていることなのです

 この時代のこの土地と人々とに)

 

 

 

東日本大震災後に東北へお手伝いに行く車の中で話したことがありました

地震津波というこんなに残酷なことがあっていいものなのか

これを黙認するならば神なんていない

という人がいました

 

 

わたしが今時点で考える神とは

森羅万象でありそのエネルギーであり人間の善悪の判断では測ることのできない宇宙の真理のことだと思っています

 

 

そして宗教とは信仰とは一体なんなのかという自分の中の大きなテーマ

 

 

 

そんなことを踏まえて書いてみようと思います

 

 

 

まず人間の残忍さの甚だしさにぞっとするところから始まりました

 

悲惨な拷問の記述は文章で書かれているだけでもそれは恐ろしいもので

冒頭部分を読んだだけで

映画を観に行かなくてよかったと思ったくらいです。。。。

 

肉体的なものだけでなく精神的な拷問もまた筆舌し難いものがありました

 

 

そしてその拷問もさることながら

それを無表情に見に集まる群衆への恐怖

 

 

これは甲乙つけがたい恐怖です

 

 

 

そして庶民の貧しさ

一向一揆を起こした浄土真宗の信徒たちもそうでしたが

圧倒的な貧しさの中で

現生に希望を持つことができず死んで「いるへんの」や「浄土」に行くことだけにしか救いを見出すことのできない世の中

「死」を恐れないむしろ救済とみるその生き様

 

 

書いていて思いますが

これは今の時代にもまさに起きていることですね

 

なぜ人間はこれほどまでに進化することができないのだろうか

どうすればいいかなんてわかっていることなのに

 

 

 

っと先に進みます

 

 

 

 

シュタイナーを学ぶ中で

キリスト教について触れる機会が多くなりました

若松英輔さんや佐藤優さんなどのクリスチャンの方のお話をきく機会も増えました

 

釜ヶ崎と福音』本田哲郎 (岩波文庫

『イエス伝』若松英輔 (中央公論社

などに触れる中で

 

イエスとキリスト教(=教会)とは

別のものだという考え方と出会いました

それにはなぜだかしっくりきた感覚をもちました

 

 

 

 

この本の中で

ロドリコ司祭が監禁され信徒が穴吊りの拷問に呻く声が聞こえる中

踏み絵がそこに控えているところで

司祭の師であり日本で拷問により神を棄てたフェレイラ師がロドリコに言います

 

ロドリコが踏み絵をふめば拷問されている信徒の百姓は助かる

過去に同じ状況の中でフェレイラは信仰を棄てました

 

 

自分が棄教したのと同じ状況でかつての師は教え子に言います

自分が穴に吊られても神を裏切らなかった

しかし穴に吊られてうめき声をあげるあの百姓たちのために祈った

祈り続けたけれど神は何もしなかった

 

 

「(神は彼らに)地上の苦しみの代わりに永遠の悦びを与えるでしょう」というロドリコに対して

 

「自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはならない」

 

「彼らよりも自分の方が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶといえば(棄教すれば)あの人たちは救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼らのために教会を裏切ることが恐ろしいからだ」



「わしだってそうだった。あの真っ暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよという。もし基督がここにおられたら」

 

 

「たしかに基督は、彼らのために、転んだだろう」

 

 

 

 

司祭は足をあげた。足に鈍い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も清らかと信じてきたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。そのとき、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。わたしはお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。

こうして司祭が踏絵に足をかけたとき、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。

 (268ページ)

 

 

 

 

 

いちばん弱くて醜いものに寄り添うイエスという存在

 

 

 

 

神がどうかはわからない

そこに有り体の判断はないのだから

 

 

 

けれど人に『寄り添う存在としてのイエス』というふうに考えると

それは例えば

人誰しもが持つ優しさや慈悲の心思いやり

そして時間もそういうもののように思います 

 

 

そしてゴルゴダ秘蹟についても

 

 

 

 

長くなってきたので

後半へ続きます